たにみやんアーカイブ(新館)

音楽について何か話をするブログです

「ファクトフルネス」「反共感論」と音楽語り・「エモい」という言葉について

ずいぶん前の話になるんだけど、ベストセラーになっている「ファクトフルネス」を読んだ。

FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

 

「ファクトフルネス」は医師・公衆衛生学者でかつ「ギャップマインダー財団」のディレクターだったハンス・ロスリングが財団に携わっている息子夫妻と共に書き上げた本だ(「だった」と書いているのはこの本の上梓を待たずに亡くなったからだ)。「マインドフルネス」のもじりみたいな概念だけど要は「事実で満たされた状態」ってことで、事実やデータを元に世界を読み解く習慣のことを指す。本書では「分断本能」「単純化本能」「犯人探し本能」など10の思い込みパターンについて解説し、そこから離れるための考え方についてヒントを示してくれている。

この本でとりわけ印象に残ったのが10の本能を大きく括った「ドラマチックな物語を求める本能」という言葉。ここからふと思い出して、読み終わった後続けて積み本になっていた「反共感論」を読んだ。

反共感論

反共感論

 

こちらは心理学者のポール・ブルームが様々な心理学的な知見から情動的な共感(他者の目で世界を眺め 、他者が感じていることを自分でも感じる能力)に対して反対する(道徳的な指針としては不適切と考えている)という議論をしていく本である。具体的には他者の立場に身を置くような情動的と対比する概念として「他者の心のなかで起こっている事象を 、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえる共感」を認知的共感と定義し、道徳的な指針とするにはこちらの方がベターではとして、さらに「共感」と「思いやり」「同情」という概念を区別して理性的な判断を推奨している。

この2冊に通底しているのは自分たちが物事をドラマチックなストーリーに落とし込む情動的な心の動きを本能的に持つことを自覚した上で理性的に判断をしていきましょうという話。どちらもとても良い本なのでセットで読んでほしいところ。そして読むとやはり自分達の身の回りのことを考えるための物差しとして使いたくなってくる(実際のところこういった本を読むことの真の効用は書いてある内容そのものよりも本のロジックをもって現実を見ることによって得られると思うのです)。なのでこの本を読み終わって自分の趣味・関心事である音楽周りの話について考えたりしたことを少しまとめておきたい。

音楽を聴いて何かしらの感想を持つということ自体が多分に情動的なものなのでそもそも食い合わせが悪いような気もするけど、自分が音楽を聴いたりライブを見たりして何に感情を動かされるのかということには自覚的になっていたいなあと思う。とかくアイドルにせよバンドにせよ何かしらのストーリーを抱えててそれがパフォーマンスと結びついてカタルシスを呼んでいるんだから。まああまり因数分解しすぎると面白くなくなっちゃうんだけど……

というか僕達がドラマチックな物語を求める本能を持つことや情動的な共感をしやすい傾向は多分に自覚したほうがいいだろうなと思うわけで。そういう側面から思い出したのが、音楽について語られるときに多用される「エモい」という言葉だ。この言葉は現代版の「あはれ」であるとか一種の物悲しさを漂わせるという論考もあったりしてそれも納得するところはあるのだけど、僕としてはまさに前掲の2冊にて語られてる要素なのではないかと日々感じている。そう考えるきっかけになったのが下記の文章。

ここではこう書かれている。

決して同じ体験をしたわけではないけれど、映像が頭に浮かび、追体験したような気分になる。この時、人は文章にエモさを感じるのではないか?

わりと実感を伴う納得のいく論だ。そしてこれは「他者の目で世界を眺め 、他者が感じていることを自分でも感じる」行為、すなわち共感に他ならないのではないだろうか。そう考えると「エモい」というのは共感やドラマチックなストーリーを想起させられ、それに感情を揺さぶられるという心の動きなのではと考える。例えばライブの中の「エモい」シーンの例としてアイドル・アーティストのこれまでの歴史を辿るような物だったり過去のライブの失敗へのリベンジだったりが挙がることが多いのはまさに「共感」や「ドラマチックなストーリー」により想起されたものではと感じる。「この会場でこの曲をこのタイミングでやることがエモい」みたいな感想はよく見かけるところで、まさに演者のこれまでの歴史だったり置かれている状況をストーリー化し自分なりに追体験しているということなのではないだろうか。*1自分としては音楽を聴くという行為が「自分の好みを探究する行為」でもあると思っているので、たまに出てくる「自分は音楽に心動かされているのか、物語に心動かされてるのか」という気持ちは大事にしていたいと思う。

そして、音楽自体はさることながら音楽を取り巻くニュースや話題についても過度にストーリー化や共感ベースの捉え方をしていかないようにしていたいと思っている。特に最近はNGT48の件が毎日何かしらTwitterで流れてくるというのがずーっと続いててうんざりしているんだけど、この件に関しても、AKSがおかしいまずい対応を繰り返しているのは前提としながらも問題があったとされるメンバーの名前を頑として公表しないことは悪し様に言えるものではないのではと考えている*2。この辺は問題発覚時の早期に吉田豪さんが論考を出しているけど僕の考えもこれに近い。

あともう一つ取り上げたいのはいわゆる「J-POPにおける自作自演至上主義」的なところもストーリー化や情動的共感共感とも結びつくところだろうなあと。先日水野良樹さんにレジーさんがインタビューしてる中でも話題に挙がったところ。

これまでのJポップというもののある種の「型」というか、ミュージシャンが自分自身のパーソナリティとリンクしたストーリーを何らか体現して、それによってカリスマになって、そしてそのストーリーに対して色んな人が憧れを持ち、それが消費されていく----そういうスタイルとはまったく別の力学で動いているミュージシャンがほんとにたくさん出てきているんだなと。たとえば中村佳穂さんとか。

ここで水野さんが挙げている話もやっぱり「共感」と「ストーリー」がベースなわけで、この2者を起点とした受容がJ-POP全般の中に深く食い込んでいたんだろうなあと思わされる。(日本に限った話ではないとはいえ)音楽についての文章表現は、音楽自体が視覚化されていないこともありどうにも表現が難しいところがあるので仕方ないかなと思うところもあるけど。邦楽ロック雑誌の定番だった(最近読んでないけど今もそうなのかな)「マイノリティな自分が音楽で救われて」的なストーリー、自己への投影しやすさなどがあったんだろうなあと感じるところ。 一方でそういったところから離れたミュージシャンが出ているっていうのは音楽のいろいろな楽しみ方を提示することにつながるから良い。僕も中村佳穂さんのライブ見たいです。

そんなに強く「共感するな!」「エモいとか言うな!」というつもりは無くて、自分としてはストーリー化本能や情動的共感があることを自覚して落ち着いて見ることを忘れないようにしたいなあと思います。そんでもって音楽の楽しみ方味わい方もこれまで以上に多様なものになってくれたら良いと考えている次第です。

*1:因みに音楽ジャンルのエモ及びエモ○○(任意のジャンル名)と「エモい」はもう完全に切り離されてると思う。それらに絡める時僕は「エモっぽい」と言うことにしている笑

*2:憶測レベルであれだけ叩かれているんだから公表したらどうなることか考えると恐ろしい