たにみやんアーカイブ(新館)

音楽について何か話をするブログです

ロックフェスで「ロックとは」議論が毎年起こることに関連したすれ違いについて

先週の土曜日、TOKYO IDLE FESTIVALに行ってきた。いつも見ているアイドルから、全く見たことないアイドルまで、とにかく色々見られて楽しかったし、アイドルもファンもいろんな人がいるんだなあということが実感としてわかってすごく勉強になった1日でもあった。

ぼくたちのリリスクは相変わらずの圧倒的な素晴らしくかわいいステージだったのだけど、すごかったなあと感じたのは東京パフォーマンスドール


ダイヤモンドは傷つかない(リアレンジバージョン)/東京パフォーマンスドール (PLAY×LIVE「1×0」より)

ダンスの強度がすごい。動き出しや止まるタイミングとか随分合わせてて、正直に圧倒された。

さて、そんな裏でROCK IN JAPAN FESTIVALも前半日程が終わって、それなりに話題があったみたい。具体的に言うと初日のトップバッターであるゴールデンボンバーへの渋谷陽一の呼び込み文句、もう一つはDragon Ashのkjが「GLASS STAGEにロックバンドが少ない」と発言した、という話。細かい発言は実際に聴いてないのでどうこう言うのは難しいのでこの2件はここでは取り上げません。しかし、ここ数年このフェスでは「ロックであるかないか」とか「ロックとはなんぞや」的な話題が毎年のように繰り返されている。そこで、せっかくだから「ロックとは何か」という手垢の付いた議論をある程度まとめておいた方がいいんじゃないかな、と思ったので今回はそれがお題。

この話をする際には「ロックとは何か」の定義をしておかないと話がぶれる(というか後で言うんだけどみんなに共通認識がないのがぶれてる主原因)ので、まずはそこから。いきなり引用なんだけど、このブログでも数回引用している「オルタナティブロックの社会学(この本は今のロックミュージックをよく著しているので必読!!)」の著者である南田勝也さんの2001年の著作「ロックミュージックの社会学」。

この本では、ロックという言葉に込められたものを実にうまくフレームワーク化しているので是非紹介したいし、これを元に話を進めたい。まず、ロックという言葉の内側には、普通のポピュラーミュージックと違うことを示す3つの指標があるという。

  • アウトサイド指標:世の中の主流からの逸脱・反抗を是とする価値観。それが最も出ているのがパンクロックであるのはお察しの通りで、おそらく「ロック」という言葉の一番のパブリックイメージはここにあるのではないだろうか。 Key Word:反抗、階級への反逆、社会体制への批判、マイノリティの立場、ほうろう、ドロップアウト
  • アート指標:独自の芸術性を追求している度合。ボブ・ディラン「Like A Rolling Stone」の歌詞、ビートルズの「Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band」のように、優れたロックミュージックもまた芸術性を有している。 Key Word:前衛、非日常、暗示、潜在意識、精神の飛翔、ユートピア
  • エンターテイメント指標:音の気持ちよさ、踊れる度合、等々大衆からの支持に繋がる快楽性に繋がる要素。あくまでもロックは大衆音楽であり、どんなに芸術性が高く世間への反抗を歌っても、評価するのはやはりチャートというわかりやすい形に落とし込まれた大衆からの評価・そしてセールスである。 Key Word:楽しみ、身体で感じること、ビジュアル、セクシュアリティ、ビート感覚、潔さ、賑やかさ

そして この3要素は全てを満たすことは不可能で、常にせめぎ合っており、どこかの要素を強めながら変遷してきた。具体的に図にするとこんな感じ(本文の図をトレース)。

rock_triangle

60年代後半〜70年代以降では電子音楽グラムロックプログレッシブロックというアート指標の高い音楽がある一方、ジョン・レノンに代表される反戦を押し出したプロテストソングや平和運動との結びつきなどアウトサイド指標の高いものも多数見られた。そして70年代後半は何と言ってもパンクミュージックというアウトサイド指標の極めて高い音楽が一世を風靡する一方、アメリカを中心にハードロックから派生したヘヴィメタルは独特の様式美をもち、クラシックなどと融合することによりアート指標が高い音楽として評価を得た。というような感じ。そしてMTVの登場とかでエンタメ志向が強くなったことと大量消費社会に飲み込まれて産業化していくことにより「ロックは死んだ」と言われる、みたいな話。

それでこの本では日本のロックについても触れてるんだけど、そもそもプロテストソングをフォークが担っていたため反抗の音楽みたいなものはロックに求められず(しかも一億層中流なのでWorking Class Heroなんてない)、1990年代を前にしてBOOWYの登場によって「アート」よりもわかりやすい「格好良さ」が受けるようになり、その後のバンドブームによりポピュライズされたことで、日本のロックは上記の指標を維持することが出来なくなった、と論じている(かなり雑にまとめてるので詳しくは本を読んでちょ)。そして、その3指標は日本語ラップ/ヒップホップが担っていくのではないか…という感じで締められている。

ちょっとだけ補足しとくと、邦楽ロック評論(というかROCKIN'ON JAPAN)で自分語りが横行しているのも、インタビューの中からコンプレックスだったりを拾い出して音楽をやる動機と接続することで「アウトサイド指標」を創出してロックの中に位置付けようとしているからだと考えられる。そう見るとゼロ年代中盤に出てきたGOING STEADY銀杏BOYZ とかサンボマスターとかは「童貞で生きづらい自分」みたいな物からアウトサイド指標を追求しようというアプローチ、とも言える。それでも社会的な階級格差とかそういうのに比べたらどうしてもスケールは小さくなってしまうのだけど。そして震災後にロックミュージシャンから政治的な発言やプロテストソングが出てきたことに反発が強かったのも、上記のような流れが背景にあると説明できる。そもそもそんな土壌がなかったわけだ。いずれにせよ、欧米ではぐくまれてきた「ロック」なる価値観は現代日本では成立が極めて難しい状況にある、という話。因みにこれ13年前の本ですからね。

とはいえ、上記のようなロックの多義性・更に日本での変容を考えると、「ロックとは」みたいな話を出しても「それってどのロック?」 みたいな話になって全くかみ合わないのは仕方ないんじゃないだろうか。ワンマンライブなら集まる人の音楽的嗜好も似ているし「ロック」という言葉のイメージは共有されて伝わる可能性は高いけど、フェスという色々な人が集まる場所ではすれ違いが起きやすい。だから変なことになるんじゃないか、という気がしている。「ロックなのに良い子でいいのかよ?」と言ってダイブを煽ったロックミュージシャンがいたけど、これは極めてアウトサイド指標の高いロックを想定した発言であり、アート指標を重視している人にはその言葉は響かない、みたいなことが発生する。さらにはそもそもそういうこと考えてなくて「ロック=格好良い音楽」くらいの認識の人だって多いわけだ(しかも年々増えてる)。そこで「ロック」を振りかざしてもみんなに意図が正確に伝わるかと言ったら結構微妙な話だ。

その一方で今年のRIJFの出演者達もロックなのどうなのみたいな話がされるわけだけど、トップバッターのゴールデンボンバーと大トリのSEKAI NO OWARI(この順番すごい。絶対意図的にやっている)も、ロックなのロックじゃないの、という議論の対象になってきた。この指標から行くと非日常を超えたユートピア感を演出しようとしているセカオワなんかはヴィジュアル系なんかと同じように若干アート寄りっぽい感じもする。そのビジュアル系の末裔(いや、亜種?突然変異?メタ的存在?)であるゴールデンボンバーからはこれまでに挙げていた要素は感じられないけど。去年1月のROCKIN'ON JAPAN本誌で「ゴールデンボンバーこそロック」みたいな取り上げられ方をされたインタビューで「いやいやいや、冗談はやめましょうよ」みたいなタッチで鬼龍院翔が応えていたのが懐かしい。

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この話は話す側と受け側どっちにも原因を帰することが出来るけど、そういうことよりもロックって確固たる何かがあるわけじゃなくていろんな要素があって、それを行ったり来たりしているのだということをわかっといた方が良いだろうなあというのが今日の結論。そしてこういう風にフレームワークにまとまってると後で応用が利いて便利だよなあということで、この本はぜひ夏休みの読書感想文にご活用ください。

他にも最近面白い本があったので、近々もう1本くらい書こうかなと思っている次第です。