「コクリコ坂から」を見て感じたスタジオジブリの悩み

夏休みは近所の映画館で映画を見るのが日課になっているここ数年。とはいえあまりこのタイミングに興味あるのがやってなかったのでハリーポッターの完結編を見てコクリコ坂からを見たくらい。あとは週末にうさぎドロップ見ようかなあと。ハリーポッターは完結編というだけあって見た後に妙な達成感。そして去年の夏休みに続き、今回も語るのはコクリコ坂からジブリ映画語るの好きだよね僕って思うけど、まあそれだけ語る余地のある映画でもあるという話で。

まず先に見た感想から言うと、割と最近のジブリ映画同様に雰囲気を楽しむ映画としては非常に良くできていて、しかも今回は青春要素満載ということで学生時代を通り越した人はみんな楽しめるんじゃないかなと思う。僕も物語の主題になっているようなクラブハウス的な場所のごとき場所(あそこまでは汚くなかった。と思う。)で高校時代の殆どを過ごしたし、生徒会長もやってたし、大学でも学園祭委員だったのであの辺の感覚はよくわかる。

ただ二つ気になった点があるので、今日はそこを書いておきたい。具体的にはこの映画のテーマの話と宮崎吾郎監督という存在の話。

●映画の主題・テーマ 一つ目。この映画の主題ってなんだったんだろう。「耳を澄ませば」みたいなジブリ流青春映画なのか、それとも「ALWAYS 三丁目の夕日」みたいな昔懐かし映画なのか、どっちだったんだろう。しかもわざわざ原作から時代設定も変えてまで何を伝えたかったんだろう。と思った。しかも安保闘争の頃って、それこそ宮崎・鈴木の青春時代であり、主人公のうちの男性二人はまさに彼ら二人なんじゃないかと思うくらい。特に俊の演説シーンは宮崎駿が言いたいことがこれでもかという位に詰まっていて、そこだけものすごく異様だった。とりあえずそこが非常に気になった。結果なんかラストシーンが終わってから「えっ。それだけなの?」みたいな気持ちになってしまったのは否めない。

宮崎吾郎監督という存在 あのゲド戦記から5年。久しぶりの宮崎吾郎監督の作品。先日のNHKの特集番組でもやっていたが、彼は親父の仕事を一番よく見ていた他ならぬ存在。それ故非常に作風が父親である駿氏に似てしまっている。今作でも耳をすませば崖の上のポニョをはじめとした歴代ジブリ作品を連想させるシーン・カットが頻発した。まあそれはそうならざるを得ないし、はっきり言ってゲド戦記は駄作としか言いようがなかったけど、今作は良くなってたと思う。彼は決して親の七光りで映画監督をやっているわけではなく、自らの意思でやっているのだ。そして今作を見て僕が何となく思ったのは、「吾郎さんは巨匠宮崎駿と比較され続けるというカルマを負うことを自ら選んだんだな」ということ。ジブリにはアリエッティの監督をした米林さん(吾郎監督よりちょい下)もいるけど、「耳をすませば」の近藤監督が亡くなって以降ずっとジブリにつきまとっていた後継者問題には、吾郎監督が矢面に立つっていうのが一つの答えなんだろうな、と思った。そして吾郎監督自身は父親を超えよう、と。その辺はドワンゴから丁稚奉公している川上さんが語ってるとおり。

この二つの話っていうのは、スタジオジブリが抱えている宿題なんだろうなと。宮崎駿という巨大な才能とその思想に基づいてきた(というかそうするために作られた)スタジオジブリをどう永続させるかという話だと思う。ただ巨大な才能の次の才能を作り出すのはすごく難しいので、そこはどうなるんだろうね。吾郎監督が化けるか、生え抜きの人たちが化けるか。そこはまだ期待が持てるところではあるので、次回作も期待はしております。まあその辺の真価が見られるのは、本当に鈴木敏夫宮崎駿の二人が一線を退かないことには難しいのだろうけど。