たにみやんアーカイブ(新館)

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lyrical schoolとアイドルラップの話〜その1:その「歌詞」は誰のもの?

4月12日にlyrical school現体制の活動終了を発表した。今の5人のリリスクでの活動を7月24日の日比谷公園野外大音楽堂でのライブにて終了し、メンバー4人(hinako・hime・yuu・risano)が卒業、その後は新メンバーを募集した上でminanを中心とした新しいリリスクを始めることになる。今の5人のリリスクについては自分は2017年の7月からがっつり追い始めて5年間ずっと見てきたのでとても寂しいと感じる発表であったが、今年に入ってからの諸々の動きやアルバムの曲リストなどで察してるところはあったのでどこかで納得しているところもあった。そしてその直後にリリースされた現体制最後の最高傑作アルバム「L.S.」を存分に味わいアルバムを受けての全国ツアーを一緒に駆け抜けてるうちに半分以上の公演が過ぎ去ってしまったことに気づいた。もうすぐこの5人との時間が終わってしまう。このままでいいのか。いやよくない。このタイミングで、この5人のリリスクについて僕は書き残しておきたい。というわけで、これまでにこの5人のリリスクが成し遂げてきた「表現」とはなんだったのかを自分の中できちんとまとめたいと思うに至った。この5年間ずっと追いかけたリリスクの表現としてのおもしろみはどういったところにあったのか、何が彼女たちのオリジナルであったのかを自分なりに解き明かし、文章として記述したい。

前書きのような注釈

というわけで、この文章は以下のことについて記述する。

  • 2017年5月21日から今(本稿の公開日である2021年6月20日)に至るまでのlyrical schoolリリスク)の音源・ライブを中心とした表現活動について
  • 上記期間のリリスクの作品に関する「アイドル」「ヒップホップ・ラップ」両面からの考察

一方で、この文章では以下のことについては書かないか、主題としては扱わない。

  • リリスク以外のラップアイドルグループ
  • 2017年2月26日までのリリスク(所謂旧体制)について(今との比較で多少触れるくらいになるはず)*1
  • 今のメンバー5人それぞれの魅力(ここについて話したいことがたくさんあるのだが、この文章ではまずマクロ視点でグループの表現全体について考えたい)

全ての固有名詞は敬称略とする。また、「ラップ」と「ヒップホップ」についてはある程度区分けして書いているつもりであるが、「アイドルラップ」についてはある程度ヒップホップ性を帯びたものとして記載していることをあらかじめ注記しておく。

その歌詞は誰の歌詞?

「ヒップホップアイドルユニット」であるリリスクについて語る時、必ず論点になるのが作詞を本人達ではなく外部の作家(ラッパーだったり非ラッパーのミュージシャンだったりあるいはプロデューサー)が行なっており、基本的に本人が歌詞を書いていないことの是非である。このことについて「リリスクは自分で歌詞を書いていないからヒップホップではない」というように否定的な見解を示す人は多い。ヒップホップという音楽ジャンルはその出自からして多分に自己表現の色彩が強い*2ため、「ラップは自分で書くべき」という価値観が他の音楽ジャンル以上に強固に存在していることがその背景にある。例えば日本語ラップ界の大御所ZEEBRAは著書「ジブラの日本語ラップメソッド」で次のように述べている。

ラップをすることの9割は歌詞を書くこと。だから、俺が買いた歌詞をアイドルが歌うのは超簡単。教えればね。

因みにZEEBRAがパーソナリティーを務めるWREPの番組にhimeが出演した際、ZEEBRAから「歌詞は自分で書かないの?」という質問があり、当時「S.T.A.G.E.」のリメイクでメンバーそれぞれが自パートの歌詞を書いたのでその旨を伝えるとZEEBRAが満足気な反応をした、というエピソードがある。ZEEBRAとしてもヒップホップの名を掲げるなら歌詞くらい書くよねと当然のこととして思い問いかけたのだろう。

また、自己表現として自分が歌詞を書くことと繋がる話として「リアル」であるかどうかもとても重視される要素である。国内の(だけではないけど)ヒップホップにおいては「リアル」か「フェイク」かといった価値判断がしばしばなされており、本物のワルでもないのに悪ぶっている様なラッパーは「フェイク」と呼称され基本的に低く見られる(あるいは無視される)ことになる。こういった雰囲気については、himeから前作「Wonderland」のリリースインタビューにてリリスクにとってビハインドなものであることが述べられている。

私はアングラなヒップホップ、現行の流行りのヒップホップが大好きなんですけど、そういうヒップホップのリスナーの子たちってアイドルを毛嫌いしている人が多いんです。私も自分がアイドルをやってなかったらそっちタイプだと思うからわかるんですけど、アイドルにネガティブなレッテルを貼っていて。ヒップホップってリアル至上主義だけど、アイドルって極上のフェイクじゃないですか。体調が悪かったらそれも出しちゃうのがラッパーだけど、ウチらは具合の悪さとか絶対出しちゃいけないんですよ。そういうギャップがあって、私は揺れ動くというか、板挟みになっていて。アイドルって人を元気にしたり幸せにしたりする最高の職業だと思う反面、ラッパーとして見てもらうためにはハンデだと思っていたんです。

この発言は割と自分の「リリスク観」の根底に影響しているものであると同時に、自分に一つの問いかけを繰り返し投げかけている。すなわち、「リリスクの表現は本当にリアルなものではないのか?」というものである。彼女たちのやっている表現を、本人達が自ら筆を取って書かれたものではないから・アイドルはフェイクの存在だからとシンプルにヒップホップではないと切り捨てていいものなのだろうか。この1年その問いへの答えを求めてライブを足を運んでいたというと大袈裟だが、やはり様々なライブを見る中で折に触れてこの命題について考える機会があったのは間違いない。従って、本稿ではまずこの点について考察していく。

リアルか否かについて考えるに当たって、今のリリスクが2017年5月より前のリリスクからどう変わってきたかという話をしたい。そしてそこから今のリリスクを特徴付ける要素を見出していくとともに彼女達の表現の中にリアリティあるいはヒップホップ性が存在するかどうかを検証していきたい。

2017年5月に始まった今のリリスクはそれ以前のリリスクに比べると「ヒップホップ色を強めた」という捉えられ方をされることが多い。例えば2017年度のアイドル楽曲大賞を振り返る座談会でも「よりヒップホップっぽいスタイルでパフォーマンスしている」と言及されている。ここでは「ヒップホップっぽい」という言葉を「振り付けをつけずにMC集団っぽい振る舞いをステージ上でする」という意味で使われているが、実際この変化は後々に効く大きな変化の第一歩だった。これを機にlyrical schoolは過去の体制から曲調も大きく変わり、ヒップホップとしての純度を高めていくことになるのである。この「lyrical schoolのヒップホップ化(変な表現ではあるが)」というのは前述のステージの振る舞い以外に「リリック」「トラック」の2つのレイヤーで進んでいたと考えられる。これらについて読み解いていくことで彼女達の表現のヒップホップ性というものが見えてくるのではなかろうか。まずは、先述した通りヒップホップ表現のコアであるラップの歌詞=リリックについて考えていくこととしたい。

リリスク楽曲のリリックについては実はステージ上のパフォーマンスが変質し始めた2017年8月ごろに並行して変化が起き始めていた。どのような変化が起きていたのかというと、メンバーのキャラクターやパーソナリティを歌詞に投影する度合いが高くなったのである。「tengal6」や「S.T.A.G.E.」のような自己紹介ラップ楽曲や「FRESH!!!」のメンバー名織り込みリリックとはまた違ったアプローチが始まったのである。具体的にこの年の曲では「(GET AROUND!) TOKYO GIRLS!!」や「GIRLS QUEST」などに顕著に見られる。前者では「hime ride on!」といった呼び込みやyuuのペンギンモチーフ、hinakoパートにディズニー関連のワードが入ったりしている。後者ではより個別メンバーのエピソードをリリックに盛り込んだりしながら日比谷野音でのライブを目指していくのだというストーリーが提示されている。翌年は「High5」で今のリリスクのメンバーがこの5人であることを強調してそれまでの「6本のマイク(tengal6のフックにもある前体制リリスクのキャッチフレーズ)」と明確に線が引かれる*3といったこともあれば、hinakoのディズニーに続きyuuの映画・minanの海外ドラマなど様々な形でメンバーの好きなもの・パーソナリティ・キャラクターなどの反映が進んでいった。この辺りは継続して参加している作家、特にアナの大久保潤也がメンバーのことをよく観察しながら書いていたところによるところが大きいだろう。

そして特筆すべきは2019年の「大人になっても」だろう。Jinmenusagiがリリックを担当したこの曲は、メンバーの子供時代の具体的なエピソードをヒアリングして、それを元にリリックを書くというプロセスで作成された。それゆえにメンバーにとっても実際の自分の子供時代の出来事であるため思い入れの強い歌詞になっており、時には歌いながら泣いてしまったりすることもある特別な曲でもある。この曲はJinmenusagiによる仮歌(セルフカバーではない)がSoundcoludにアップされており、そちらの発表時にもヒップホップファンから反響があった。しかしこの曲で歌われている内容はhinako・hime・minan・yuu・risanoのリアルであり、彼女達の歌・彼女達のラップと言っていいのではないだろうか?*4人の手で書かれたものではあっても、彼女たちの内側から出てきた表現なのでは、ということを思わずにはいられない。これをリアルと言わずなんと言おうか。

「大人になっても」はメンバーの子供時代の実話を描いた歌だが、他の曲はどうだろう。himeがかつて「リリスクにいる自分は別の人として思ってやっている」と述べていたように、アイドルとして振る舞うということはある程度のキャラクター性を帯びて生きることであり、完全リアルの自分ではないということもあるだろう。しかしアイドルがたとえ演じられているフェイクのキャラクターだとしても、そのキャラクターが活動を続け表現を行なっていく中でそのキャラクターに付随するリアリティというものが生じてくるのではないか。*5これまでの楽曲にて描かれてきた具体的なエピソードやメンバーの好みの話などを織り込んだリリックはやはり彼女達なしでは生まれてきてはいないだろう。外部作家が書いてはいるもののこういったパーソナリティーやストーリーを織り込んで作られたものは彼女達の内から出てきたリアルな表現と呼んでもいいのではないだろうか。なおかつそれはヒップホップ楽曲のリリックとして充分な説得力を持ちうるものだろうと考える。

himeもまた、直近の単独インタビューにて外部作家提供のラップを歌うことについての想いを述べている。

今までプロデュースしてくださったJinmenusagiさん、PESさん、KMさんとか。

おこがましいけど、リリスクがお願いしていなかったら、あんなにかわいい歌詞って書いてくれなかっただろうなと思ったんです。

そう考えると、人気のラッパーの新しい一面が見れるし、私たちもいろんな方が書いた楽曲で、さまざまな表現ができる。そして、ファンのみんなもリリスクのいろんな面が見れて楽しいと思うと、すごく貴重で良いグループだな、と。

個人的に、ラッパーはやっぱり自分で歌詞を書いてこそだと考えていたから……。他の人に書いてもらうのは光栄だと思う一方で、引っかかる部分でもありました。

だけど、リリスクがなかったら生まれなかった楽曲がたくさんあると考えたら、すごく面白いことをやっていたんだと考えられるようになりました。

リリスクのラップの表現としての面白みはここにあると言ってもいいだろう。メンバーが媒介あるいはプラットフォームとして機能することで、外部作家として提供するラッパーが単独では書けない新しいものが生まれる。そしてその生み出されたラップがリリスクメンバーのリアリティを帯びた「アイドルのラップ」として表現される。そこに、ヒップホップアイドルグループとしてのリリスクの活動意義が存在していたのだと強く思う。その観点において今のリリスクにおけるリリックの特徴として女性ラッパーの書き下ろし作品が多数あることも見逃せない。元々リリスクのことが好きで関わりもあったRachel・valkneeによる5人のパーソナリティを反映させたラップにも楽曲提供にて関わりを持ったLil’Leise But Goldの作詞曲も、ある種のアンニュイな気分・ネガティブな感じをうまく歌詞に取り込んでおり、メンバーの揺れ動く心や一筋縄ではいかない気持ちを巧みに表現し、歌詞表現に深みをもたらすと共にリアリティの創出に多大なる貢献をしている。

ネガティブなことだけ本音だって思われちゃって ポジティブなことだって別に嘘じゃ無いのにね アイロニーねこれっきり最後にして アタシ、アタシのためだけに歌うの  ーFantasy

そういった観点から最新作「L.S.」収録の「ユメミテル」を見てみたい。この曲のリリックはZEN-RA-ROCKによるヒップホップアイドルグループとしてのリリスク自体をテーマにしたラップで、前半は「ステージでかく汗 DIAMOND」「支えるヘッズは CHAMPION」とヘッズ(ファン)との絆・「流した涙とマスカラ」に象徴されるこれまでの苦労など様々な思い出を振り返りつつも「酸いも甘いもまだコレから その先の向こう側」と大きな舞台に立つことを窺わせる様なリリック、後半では「SO SOLID な LIFE は HARD 女の子も大変な訳で」「たまにココロ ちょっと折れそう モヤる悩み 揺れる思い」とアイドルとして過ごす上での苦悩が語られる内容になっており、今まで述べてきたようなアイドルラップのリアリティをふんだんに歌う楽曲になっており、曲の持つ日比谷野外音楽堂でのライブと繋がる仕掛け*6と相まって現在進行形の表現になっていると共に、これまでのアイドルラップ表現の集大成のようなものになっている。

また、アイドルソングは当て書きされているものやアイドルグループのストーリーを語る楽曲がかなり多い(特にメンバーの人数が少ないグループの楽曲に顕著に表れる)。そういう観点から見るとリリスクが持つヒップホップでありアイドルでもあるという両面性は、メンバーのパーソナリティを帯びた表現をより強固にしているのではとも感じる*7。彼女達の表現はこの上なくアイドルソング的に機能する、リアリティを纏ったヒップホップである。ステージでの彼女達のパフォーマンスはそういうだけの説得力を持っているし、5人の個性とリアルが織りなす表現が胸を打つものあるからこそ自分はこの5年間このリリスクに夢中になってきたのだ。

 

長くなったので(ここまでで7,000字)本稿は一旦ここまでにして、次回はリリスクのビート・トラックがこの5年間でどの様に進化してきたか、そしてそれがどういう意味・意義をもたらしてきたのかを検討していきたい。

*1:私が現体制・旧体制という言葉をあまり使いたがらないのは単純なこだわりです。なんか無機質な感じしません?

*2:この点について書こうとすると記事がもう一本できてしまうので割愛する。よく知るためには定番の書籍ではあるが大和田俊之・長谷川町蔵文化系のためのヒップホップ入門」を参照いただきたい

*3:2017年のインタビューでキムプロデューサーはメンバーをさらに追加する可能性があることを示唆していたがこの辺りで言わなくなった

*4:もちろんJinmenusagi本人も音源公開時のリアクションに応答して彼女達がいたから産まれた歌であるという趣旨のことを言っている。Twitterが削除されてしまったので今は参照できないが…

*5:この点において香月孝史は著書「アイドルの読み方」の中で現代のアイドルはSNS等を通じてオンもオフもパーソナリティを公開し、それをファンが愛でる構造になっていると分析している。また、いわゆる「オフ」についても公開前提である以上公開されるに足る振る舞いを自然としていると指摘し、アイドルのキャラクターの作られ方を構造化している。

*6:この「仕掛け」については別稿で詳述する。

*7:一方で、今いるメンバーの個性に強く紐付いた楽曲はメンバーが替わると出来ない・あるいはやったときに強烈な違和感が生じるという副作用もある。特にメンバー個人個人の好きなものや個別具体的なエピソードの入った曲の中にはこの先のリリスクにおいて実演するのが難しいものもあるだろう。